いかにも1年は早く経ってしまう。毎日の生活というのも以外に多忙であったりする。遠い所から職場に通っているせいもあるが、休日以外は<食べる・働く・寝る>という世界が延々と繰り返される。何か日常生活を揺り動かすような出来事がないと、そのままに過ぎ行く。 健全と言えば健全かもしれない。目の前に脅威がなければとことん惰性・習慣に流されるものらしい。そうしてみると、今私は何かに揺さぶられ、こうして半開きの眼をゴシゴシこすっているのだろうか? |
去年は10月22日頃で更新しなくなってしまった。原因は思っても見なかったところにあり、自分でも驚いている。
<書込み中>で挫折。 |
どうにも思ったようにホームページの更新ができない。飽きっぽいのかな。 i-mode用のホームページもほったらかしになっているし、どういうページにするかも決まっていないのが本音。i-modeでは情報の粒が大きいと読みきれないので、小粒でないといけない。過去の何かにこだわるより常に最新の情報がなければつまらないのかもしれない。現在の断面で無ければいけないのだろうね。 i-modeのホームページアドレスは、 http://www.leaflets.com/i/ 誰か気が向いたら見てね(たいしたものは入っていません)。 昨日は何気なく本屋に行ったら吉本隆明のインタビュー本があったのでつい買ってしまった。何か懐かしい。今の世代には吉本バナナのほうがメジャーなのかな。 |
この夏ぐらいから車を買換えようと本気で考えていたのだけれど、ついに本当に買ってしまった。買うと決めるととても早く事が運んで、先々週の日曜日には買ってしまう仕儀となった。 何を買ったかというと、『八リアー3.0 FOUR』。中古(平成10年2月〜18,000Km走行)なのに結構値段が高いので驚きだった。ただし、随分とオプションが付いてはいるのだけれど。サンルーフ、リアコーナーセンサー等々。これは入っているにこしたことはない。それにしても高い買い物だった。今乗っている車は新車でもハリアーの半額もしないのだから(お買い得と営業マンに言われ素直に買ってしまった)。 今回も営業マンに乗せられてしまったかな。中古だと同じ物は1台しかないと言われ、つい買い急いでしまった。もともとはSURFの試乗に行ったはずなのに、試乗はせず、ハリアーとSURFを見比べたらハリアーの方がよく見えた。こうなると、私もハリアーがいいという頭しかなくなって、買いたくてしょうがなくなってしまう。案の定その日のうちに買うことにしてしまった。ほんとにこれでよかったのだろうか? 車は今週の土日に納車予定! |
油断しているとあっという間に時間が過ぎて行き、このページの更新も忘れてしまう仕儀。「継続は苦痛なり」。 ところで9月下旬からはimodeのページも作り始めた。記述言語はHTMLの縮小セットなので苦労なく作れる。問題は制限された機能の枠内で作るということ。技術的には大した問題ではないのだけれど、この枠内でできること、表現できることは何なんだろう。ちよっと難しい。量の多いものはだめだろう。文字であったにしろ、多くを留めておくことは難しい。常に今の断面であるような形にしかならないのかもしれない。ただ、来年にはPDA並の能力を持っているかもしれないが。 |
9月14日から夏休みを取る予定。しばうく帰っていなかった実家に帰省する。場所は北海道帯広。今話題になってる雪印の大樹工場の近い都市、とは言っても人口は15万人前後の農産物集積する小都市。 |
仕事先が銀座になって街角をうろうろしてみると意外なことに気がついた。飲食店が多いのは何の不思議もないが、偏りがある。メニューの中に牛舌と”とろろ”が多いことに気が付いた。 どうしてなんだろう。 |
仕事内容が変わって、今週からは銀座に通っている。通勤時間が短かくなるかと思ったが、期待に反してたいして変わりはしなかった。ただ、良かったのは電車の乗り換えが無いこと、食事をする店が多くあること、華やかな街並を歩いて帰れること。退屈はしなさそうだ。 今日の昼食は『イントネシア・ラヤ』でカしーライス。新宿歌舞伎町の『イントネシア・ラヤ』には何度か行ったことがあり、ちょっと懐かしくて入ってみた。しかし、このランチ・カレー(チキン・カレー)は今ひとつ。昔し食べたマトン・カレーは美味しかったのに。今度はマトン・カレーを食べに来ようとは思うものの、料理は個々の店で違うものだろう。やはり味は料理をする人に依存する。 |
何故かボーッとして日が過ぎて行く。 こんなことはたまにあること。日々の習慣が変わったり、忙しい状況から解放されたり、つまり、意識しようがしまいがに関わらず目標が消えるような状況。 人間は何かに向って行動していなければ落ち着かないようだ。しかし、かと言ってそれが本性だとも思れれない。暫くすれば、それにも慣れて行く雲を眺めるのに幸福を感じることもあるだろう予感がある。それはそれで良いのだ。生き方には千差万別あり、私は可能な限り変化を求めてこうして来たのだから。ただし、コンピュータ業界に入ったのは生活に対する不安や私の日和見な考えであったのだけれど。 |
ともあれ、ツべルクリンを打って次の検診日までわいわいと皆で腕にできた赤い発疹を比べあっていたが、時間が経つに従って私の発疹は勢いづいて、見る間に他を圧倒する大きさへと向っていく。 というわけで、私はツベルクリンで強度の陽性反応が出てしまった(本当に典型的な感染を示す反応、つまり、2 重円、内円が固くなる、内円に水泡)。最初は診察に当たった医師が「薬を飲みましょうか」と言ったけど、 私が子供の頃に叔母が結核であったことを話して見ると、「難しいな」と 言いつつも、薬を飲むことは止めになり、3ヶ月後にレントゲン検査をすることとなった。ツベルクリンは過去において感染の事実があるのを確認 するのみで、現在結核菌を保有しかつ発病の過程にあるかについては判 断できないとのこと。私ぐらいの年齢になると長い年月の間に全身雑菌で汚れているので(笑)、騒ぐことの程はないようだ。 要は発病さえしなければ良いのだな、と納得しておこう。発病率はBCG注射を受けていない場合が30%以下。 BCG接種をした人(私を含む)はそれよりも低いと言われている(ただし、近年の研究ではBCGの効果が疑問視されている)。 さて、3ヶ月後、6ヶ月後の私はどうなっているか。ひょっとして、隔離病棟でこんなことを書いていたりして! |
何もない今日この頃。日がな一日寝ていたい。暑さに疲れたか、タ食後はボケッ〜と居眠りタイムになる。11時前後にムクッと起き出してパソコンに向ったりなどして時間がどんどん過ぎて行く。気付くと何時の間にやら丑三つ時も過ぎてしまうことが間々ある。 しかし、最近の結核騒ぎで私は強度の陽性反応(ツべルクリン)が出てしまい、一応体カが低下しないように心掛けることにして、午前2時前には寝ることを心掛けている。 どうしたことか今年は病気、病院に縁のある年になってしまった(おみくじは大吉だったのに!。ただし、失くしてしまったようだけど、家のどこかに眠っているに違いない)。 ところでその病院のお話し第ニ弾。 ツべルクリン注射を打つために病院へ行ったのはいいのだが、待合室で待つことの恐怖!。ここは結核に詳しい病院(専門的機関)らしいが、待合室にいる来院者は皆、結核の疑いがあるということかな?。室内で蒙々と白い煙を吐いている加湿器が疎ましく、時折響く咳込む声が一層ヤバイ雰囲気を醸し出している。本当に大丈夫なのかな。結核がどういうものか詳しくは知らない私には、不安ということしか言えない。 昔は不幸な病気ではあるが、貧しくも薄命な美人や文学青年等が罹る「繊細」な病いと見られていたが(その当時の人々がそこまでロマンチツクであったとは思われず、栄養の行き渡った後の人々の思い入れだろう)、今時罹るのは不摂生、過労、油断といったところか。私は不摂生できあるものの、このところ過労とか油断(3月に一週間入院したばかり)とかからは縁遠い生活だ。見るからに栄養も行き渡っているし!。 |
暑いと言葉まで熱くて品が無くなるね。 湿気がどんどん強くなって、今日は雨らしい。こう暑くて湿気が多いと、病気が流行るのかな。ハム、ソーセージ、牛乳は食中毒騒ぎ、妙に流行り出した結核。私の近くでも騒ぎが始まったところ。 電車の中はむしむししていて、冷房は効かず、衣服が汗でべとつく状態。私の場合は2駅で開放されるので我慢もできるが、長い区間を乗る人にとっては耐えられない状況だろう。 何も皆が同じ時刻に移動しなくたって良さそうなものだ。私の会社もご多分に漏れず朝は8時50分始まりだ。ひたすら時間で縛ることしか考えない。このおもよゃ箱をひっくり返したようなごみ々々した都会に働きアリどもをぶちかましたような混雑。ここには効率とか豊かな時間なんてものは無い。80年代後半以降に世の中が金銭的価値観が優位になり、共産主義の崩壊を経て競争が絶対的正義になった今日この頃、果していつまでこの状態が続くのか。 知ってるだろうか、競争は常に均質化へと向い平衛死を迎えることを。でもその前にポンコツ人間の山ができるかもしれないけど。 |
ちょっと気を抜くと毎日があっという間に過ぎて行く。ついホームページの更新を忘れてしまう。 先週まではSunのJava試験で忙しかった(実際は勉強というよりパソコンの修理に明け暮れていた)。うまいことギリギリ受かったので、今は好きなことができる時間がある。早いとこ八イデガーを読んでしまいたい。 最初は『ツオリコーン〜』だけでもと思っていたが、この際だからと『存在と時間』も読み始めてしまった。昔は数ページで音を上げてしまったこの本も、今は読めるようになったようだ。一体自分の何が変わったというのか、不思議なことだ。このような書物にも縁がなくなって久しいのに。ただ、日々の糧のために働いて時間の過ぎるのに任せていた日々。 閑話休題。 台風が近いている。今、関東直撃ルートにある。伊豆諸島はたび重なる地震に揺れている。ここ数年の気象の変化・気まぐれは大きい。年々、温暖化して日本は亜熱帯性の気候へ近づいているよう。マク口の気候変化に今から何らかの手を打っても、もう遅いだろう。この長い時間の積み重ねをほぐすには更に長い時間が必要かもしれない。 ここに来て何かの最後のスイッチが入いり、もう房れない変化の中で加速度がっいたのか知れない。 You are alive? |
今日、明日は研修で御茶ノ水。このところ御茶ノ水には縁がある。先週金曜日には「魚がし日本一」で数人で食事をした。久々の愉しい時間がすごせた過ごせた。思えば東京での払の生活は御茶ノ水を中心にしていることが多い。この界隈あるときが自分のもっとも幸福な時間の多くを占めているのだろう。 |
最近は『ツォリコーン・ゼミナール』八イデガー著の内容について考えている。5月末ぐらいから読んではいるのだけれどなかなか読み終えられない。途中で中休みなどして。 昔から八イデガーは読もうとは思っていたが『在存と時間』には歯が立たなかった。いつも真正面から取組むことなく側面から入いる癖がついているので、岩波文庫ではなく他の出版社で出している『有と時』(『存在と時間』のこと)という表題のものを買ってはみたが、すぐに座折した憶えがある。別に他人のせいにする訳ではないが、訳も大切。読みずらい訳では苦しい。 今回の『ツォリコーン・ゼミナール』では訳もこなれていると思う。問題はハイデガー自身の難解な言い回しにある。確かに言葉にするのが難しい内容を言おうとし、使用する言葉の語義・語源に思考を集中させたりもする。これはドイツ語、ラテン語に通じない人間には辛いことだ。あまりこのようなことばかり言うと、とても読む気にはならないかもしれないが、八イデガーを知る上ではとても良い入門書に思える。 内容としては、八イデガーが「精神分柝」、「科学主義」、「客観主義」、デカルト、二ュートンに対してどのような評価・批判をしていたのかを直接的に言及している。昔の神学や近代までの哲学を理解するより、現代の問題に直接言及されたものを読む方が理解し易いと思う。ここには八イデがーの考える存在(実存)や、量子カ学上の存在概念の問題が語られている。 たいへんに興味深いのは、「対象」という概念がどのように形成されたかの分柝は圧巻であると言える。この基盤の上にこそ柄谷行人の『日本近代文学の起源』(だったかな?)が成立したと言っても良いような気がする。 八イデガーはどんどん存在の意味・深みに針を落として行く。 私が本当に内容を理解するのには、今しばらく掛かりそうだ。 |
『八ン二バル』を読了。面白いミステりーではあるけれど、それまで。 八ンニバル・レクター博士をヒューマ二スティックな側面でその心理を分柢記述したのは誤り。更に全体にこの分柝ということが幅を利かせすぎて、しりター博士とクラリスの存在感が薄くなってしまった印象がする。最後の数十頁はお伽話と言ってもいい。それに比べればメイスンの沼の底から濛々と湧きあがる悪意の方がやるせない。彼は根っからの悪人として描かれている。 そうしてみると、この小説は他人の悪意(官僚組織も同じこと)から夢の世界への逃亡と見えて来なくもないが。 クラリスは現実に対面している時はサイボーグのように強く、逃避先ではお姫様と言ったところか。 |
今『八ン二バル』を読んでいる。『羊たちの沈黙』の続編だが、『羊・・・』の方は映画で見て本は読んでいない。もうすぐに読み終わるように苦労をすることはないが、「残忍さ」で受け狙いをしたといういうな小説。言葉で奥行きをもたせるのは難しいが、映像ではそれらしく撮れるのかな。暇と好奇心がある人は読んでみるといい。 このところ雨ばかり、「雨の日にはミステリーを読もう」と言ったのは稙草甚ーだったかな。大学へ通っていた1年目のアルバイト先は出版社だったけど、そこで出版していた本に稙草甚ーのものがたくさんあった。 |
サボり癖がついてしまってしばうく休養してしまった。その間、世界は激的に変わってしまったということはなく、相も変わうない世界が続いている。 毎日新聞を読むと、次第に飽きてきたりもする、何故だか毎日が同じ二ュースの繰返しに見えて来る。底の方には何か決まりきったパターンがあるように思えて来る。と同時にいつの間にやら深い倦怠感の中に居る自分がある。 仕事の方はと言えば、次の受注が決まるまで忙しいことは避けていられそうな雰囲気。この間にJavaの試験も受けてしまおうと思っている。 |
連休も終え、連休前の仕事も強引な区切りをつけて手を離れてしまうと、何か急にサバサバした気持ちになった。 これでいいのかな?。普段はアクセクした仕事しかしたことがないので、こういうときは一番危険な時間だ。ソフトの開発を職業にしてからは本当の意味で”考えること”を避けて来たのだけれど、今は独り部屋の中でうずくまって居たい。 何はともあれこのHPを更新できる時間が生まれることは良いことだ。会社の仕事の方もサバサバした?状況らしく少しは時間の使い道も自由になるかな。 |
連休前半の大きなイべントは!! <書込み中> 日が経って挫折、日が経つと書く気カが失せてしまう。八ヶ岳の白樺湖近くの保養所で一泊しただけでした。 |
退院するとすぐに日常のどたばたした時間に戻ってしまい、書く時間を作るのが難しい状態が続いた。 ようやく連休が始まるのでこのページ以外も更新しようと思っている。 |
今日は通院日で朝から病院で診察待ち。すょっと出遅れて9時を少しまわったぐらいに病院に着いたが、すでに待合室は外来患者でいっばいだった。 土曜の病院も老人でいっぱい。病いとの関係をどうするのか?。何か飽和状態の様子。 |
一昨日、『永遠の仔』を読み終えた。入院しクいたときから読んではいたが、いつもの癖で他の本にも浮気をしつつ読んでいた。最後の方は一気に読んでしまったが、ミステりーとしての犯人探しは最後の方まで読まないと見えて来ない。うまく伏せてある。ただし、犯人に必然性を感じるかというと、今一つ弱い気がする。 数年前から問題としてクローズアップされた幼児・児童虐待を正面から取り上げた内容。虐待を受けた子供はやがて大人になり、自らの子に対して同じように虐待をすることが多いという(虐待があった家庭を調べてみると虐待をする側が子供の頃に虐待を受けていた場合が多いということで、虐待を受けた子供の多くが幼児・児童虐待を行うということではない)悪循環を子供の視点から説得カある描写をしている。最幕は末解決のまま終わると言っていいだう、犯人探しを除いて。 安易な解決を示すより良いだろう。だけど、暗く虚しい物語ではある。今テレビでも放映しているので内容についてあまり書いてはいけないかな。本はよくできているけど、テしビはどうかな?。 この本では大人になるのが年齢のようにとんとん拍子で行くものではなく、多くは子供のまま未熟なのだと言っていると思うが、私はどうだろう、そして貴方は?。 |
4月12日に退院。あっけなかった。 翌日一日は自宅でウオーミングアップ、翌々日の金曜日には考勤した。ほんの暫く会社から遠去かっていただけで会社の空気が馴染みのないものに感じられる。 また、これからいつもの日常に戻ることになる。いつもは日々の仕事に追われ自分を見失っている中で、自分の位置を確認するのは良いことだ。本当は自ら自分を見失うように仕向けている自分に気が付くだろうから。 1980年代、時代の流れに乗ることで自分の孤立感から逃れようとし、ここまで来た自分がいる。これは忘れてはいけない。 |
そろそろ退院間近。退屈な入院生活ともおさらばできそうだ。朝に主治医が様子を見に来て、 「そろそろ出たい?」 「ええ、そうですね(もう先生にオモチャにされるのはゴメンだ!?)。」 「今日は無理だけど。もう随分と良くなったようだから、明日にでも退院するようにしましょうか。」 「はい(色っぽい主治医の貴女と別れるのは寂しい)。」 てな訳で、退院近し。 |
入院生活にとってテレビは必需品だ。これがなければ一日をどのように過すか難かしい。健康体ではないので、長い時間能動的活動をすることは結構つらい。そんなとき受動的に時間を潰せるテレビは有難い存在だ。 ただし、見るべき番組がどれ程あるかと言うと、たいへん心許無い。たいした番組はそうそう無いのが現状(BS/CSの映画が見れたらいいな)。横になっていると、つい眠くなるし、だいたいが良い子守歌のような番組ではあるし、ね、貴重でしょう属院関係者の皆さん。 |
入院して3日目になった。 今日は一日のほとんどをサッカーのテレビ観戦で過したようなものだ。病院の一日は何ということもなく早く終わってしまう。 06:00 もう眼が覚めた。 08:00 朝食。朝食後点滴開始。 09:00 受診。今日初面識の男性医師。 09:30 新聞(毎日、スポニチ)とAERAを買って読む。テしビもチラチラと観る(「王様のブランチ」)。 12:0O 昼食。昼食後に点滴終了。 13:0O 面会。 14:30 サッカーを観始める。<グランパス対エスパルス> 16:00 <ジュピ口対アビスパ> 18:0O タ食。 19:0O 点滴開始。<マりノス対ヴ土ルディ> 19:4O 点滴完了。 20:50 Jりーグの試合終了。3試合全部観てしまう。 21:0O 消燈。完全な消燈は22:00なのでNHKのサッカー二ュースを観る。 22:0O 本当にお休みなさい。 |
決して昼食後の薬でピクピクとは来なかったが、喉の方も快方へは向っていない様子だ。今日になるとうまく言葉がしゃべれない。喉の奥に何か邪魔物があるような、はたまたしびれているような。そこで早々にと昼時に先日の病院に行くことにした。 老嬢先生は私の喉の状態を診るなり、「こりゃだめだ。点滴しなきゃ。ちょっと待ってなさいね、今紹介状を書くから。」 ふむ、意外にあきらめの良い(?)先生だなと思い、妙に感心してしまった。 また、点摘とは直接血管から薬と栄養剤を 入れることぐういにしか考えてなく、先生に「どうする?、と訊かれるなり、「早く治るなら何でも」と答えた。 昼休みに寄ったのでもうあまり時間がない。食事を摂ろうにも、正に言の通り「喉が通らない」。仕事場に戻り、少し仕事を整理して早退した。向うは東大附属病院、私は救急外来で時間外の診療を必要としているという設定。 ー応、総合受付から手続をして行くわけだが、随分と時間が経かる。漸く声が掛かったときにはもう疲れていた、熱が出そう。 又、私を診察しようとしている医者は、どう見てもインターンにしか見えない。良く言えば長渕剛風丸刈り。しかし、どう見ても見習い止まりの風情ではある。まるで歯科診療並みの設備の前で、あれやこれやと私の喉の具合を調べる。遂に鼻の穴からファイバースコ―プを入れられて喉の奥をモ二ターで見ることとなるが、見られる私は耐まらない。鼻に来る刺激に涙目になってしまう。と、その若いインターンらしき医者は、「ちよっと役って下さい。」と言って出て行ってしまった。 やはり戻って来た時は年の行った医者を連れて来た(ひょっとすると私はやばい状態?!)。その中年風の医者はインターンらしき医者に何やら説明している。ただ、もっと詳しい医者に確認を取った方が良いと、呼びに行ってしまった。残されたインターンらしき医者は症状についていろいろ訊いてきたが、先程の診察のときとは随分感じが異なっている。妙に優しげになってやしないか?。確かに利の状態はかなり悪いらしいが、君は末だ末熟だな、と思いつつも、今日3度目になファイバースコープを鼻から入れられるのかと思うと、ちょっとうんざり。 結局、診断結果は急性扁桃炎で声帯とか他の喉の部位に迄炎症が広がっているとのことだった。気管の部位まで広がると呼多困難になるとのこと。また、膿が溜まってしまうと、やはり治療に時間が経かるとのことだった。 私は自宅の近くの病院で「点滴」を受けることになった。当然、またもや紹介状を書いてもらった。3人目となる先生は病状を詳しく説明してくれ、今日中に入院した方が良いだろうと言い、自宅近くの救急病院を訊ねられたので、北総病院の名を挙げた。紹介状は北総病院宛てである。 北総病院では「一週間の入院」とのことだった。私は観念して入院することにした。もう私の口はロレツがまわらない状況。即日入院でした。 |
昨日に統き喉の腫れは収まらない。ツバを飲み込むのもたいへんな努カが必要で、耳がずっと圧拍されているように重く痛い。 今朝は通勤途中で耳鼻咽喉科。病院へ寄ってみたが、来るのが遅過ぎると言われる。とことん腫れ上がっているので直る(薬が効きだす)には2日は掛かると言れれた。 ところで、この病院はお茶の水と湯島の間に位置しており、70歳にもなろうかという老嬢先生と中年過ぎの平旦なおしろい化粧の看護婦さんの2人きり。 先生が私への慰めの言葉は、「強い薬 を出しておいたからね。ちょっと強過ぎて危ないんだけど、身体がしびれてピクピクするかもしれないよ。」 何か変だなと思いつつも言葉にならず、早々に病院を出た。 今、昼食をとり終わり、「薬」を飲もうとしている・・・・・・。 |
日曜日から風邪に罹って最低の体調。熱は39度もあった。熱には強いのだけど、喉の腫れが大きく水でさえ飲込むのがっらい。 今日になり多少良くなったが、喉の腫れがなかなかとれない。 |
今日は日曜出勤、早いとこ方付けて帰ることとしよう。やり過ると月曜日に反動が来そうだから。 昨日は通院日で、車で病院へ行ったが、欹車場は満杯で置き場がない。受付だけは済ませて、再度駐車スペースを探しに行った。しかし、どこにもスペースはなく、仕方なく病院脇の道路に止めたのだが、駅車違反じゃないだろうね?。もし駐車で捕まったりしたらゴネてやる!。 ちようど病院の中へ入って行こうとすると、玄関先にいた看護婦さんに声を掛けられた。 「XXさんですね」 「そうです」と肯くと、 「すぐ診察受けられますので、外科の待ち合い室へすぐに行って下さい。」、(あぁ、良かった)看護婦の独り言 少々探し回ったようで、感謝。 早速診察となったが、いつものように先生に「不摂生はしてませんね。」と、念を押されるが、私もいっものように、「それ程は、、」と答えておく。しかし、「それでは今日は採血しましょう。」と言われ、大失敗。昨日は随分と酒を飲んだので検査の結果は悪いはず。正直に飲み過ぎですと育えぼ良かった。 |
何かむきになって毎日書いているような気がする。ちょっとクールダウンした方が良いかな。一日の大半を生活の糧を得るための仕事をしていると、なか々々書く時間も材料を仕入れる時間もできない。特に残業の多い私の業界では辛いものがある。かと言って仕事のことを書くのも気が進まない。 |
昨日の雨はすごかった。横殴りの風に堪らずタクシーに乗って帰った。昨日の嵐からー夜経た今日は、風がまだ強いけれどポカポカの春の陽気になった。やはり春は気持ちが良い。 週未には房総の方へ遊びに行きたい。だけど、土日のいずれかは出勤かもしれない。それに土曜は3週に一度の通院日でもあるし、結局いつもの休日のように成田の銭湯(華の湯)へ行って、帰りにはヨーカドーで食料品を買い出しをして終わりかな。 |
ホケノ山古墳で卑弥呼在世時と同時代の棺が見つかり新聞を賑わしている。年に数回の考古学上の大きな発見が何年も続いているように思うが、狭い日本が増々狭くなっているのかとも思ったりして。 狭いには狭い日本ではあるけれど、ホケノ山近くの箸墓古墳の発掘は行なえないのだろうか。宮内庁管轄の天皇陵を発堀できればかなりの発見があると思うのは私だけではないはず。 |
随分と陽差しが暖かくなって来た。花粉は峠を越したようだ。何処かぶら々々と出歩きたい気分、嫌な思い出も気分も、じきに忘れさせてくれそうかと思う。忘却が健康のバロメーターの一つであるように、この季節は忘れることを優しく勧めてくれる。生命のカ強い美しさを教えてくれる。捕らわれた分別臭い観念よりも、生命は不道徳なほど優しく美しい、ときに残酷であろうとも。 忘れるというのも何かに熱中している程、自然にできること。無為徒食していると、ボーッとした頭に様々なことがよぎるだろう。すると、どうしても忘れたいと思っているものに気持ちが向いてしまう。気が落ち込む。なおのことどが捕われていく。何をするのも億劫な気がし始める。何処まで行っても堂々廻りで、、、 こんなことは誰にでもあるだろうけれど、春は変わり身早く忘却を有意義に使おう。 |
最高裁判決で過労による従業員の自殺を会社側の過失と認定したとの記事があった。身体的な員荷からの過労死は以前から会社側の過失として認めるということはあったが、今回のよう精神的な側面での会社側の過失を認めるのは初めてのことだという。 これで少しは働く環境が良くなるといいけど。 ソフト開発の業界は慢性の過剰労働時間に疲れている。二、三十年前よりは良くなったような気もするが(ただし、私の周囲しか知らないが)。 末だ書きたいけど、今日は終わり。空いた時間や電車の中では一気に長文を書くには無理がある。 |
昨日、雨に降られ傘を買った。透明のビ二ール傘。生きている間に何本の傘を買うことになるんだろう。忘れっぽいのですぐに失くす。今日は用意が悪く、傘を持っていない。結局今日も傘を買うはめになるのかな。 昼食をとっている間に雨足が強くなって来た。コンビ二に寄らなくちゃ。 |
近頃肘の調子がおかしい。突然肘に水がたまってぶよ々々になり、当初痛みはなかった。腫れも引いて来たかと思うと、又、膨れだす。今度は多少痛みもある。鈍い痛みが肘にまきっいている感じ。 まさか、「マウス肘」かとも思ってしまう。以前にもマウスの使い過ぎで右腕に不調をきたしたけど、それは石手首が固くなったように感じ机に手首を載せると痛くなる。腕はずしりと重い。病院へ行きはしたが、結局、原因不明。 今回は肘だけど、だんだん知うれた病名に近づいてきた。喜ぶべきか?。 最初は個人の特殊な症状であるものが、特定の治療体系の中に入いると、呉型的な病名の枠へ括られて行く。まさに症状は典型化されて行く。 そして、典型化が行き着くと病名と共に症状が固定化される。と言うことがあるような無いような。心の病気でもあるまいし、と思って、、、、、 |
最近よく見るテレビ番組はニュース系の番組を除くとサッカーがー番多いだろうと思う。Jりーグができる前は全く興味がなかったものなのに、今ではサッカー以外のスポーツはあまり興味がない。当然、見るスポーツとしてのサッカーで、自分がするスポーツとはまた違っている。 何故好きなのかと言えば、時間もないので単純なもの言いで済ませてしまおう(気分が乗らない)、社会で生きて行く手練手管に近い要素を持っているのかな。僕らはこれを楽しみにしなければいけない。僕らのバカ々々しい努力、嘘や大ボラもあり、やけに正直でもあり、でも、結果を出すための集中力を求められ、高校野球よりも人間性に正直であると思い、・・・・解りますか?。(これは新しい正書法?)。 そうそう、僕らの業界(ソフト)も意外に似てるかも。だめだよ、笑い過ぎの貴方。僕もつられてオカシク(正気だよ)なるじゃないか。 |
書くことを日課にするの結構つらいことだ。これが日記であるのか、否かは明白であるけれど。ー日々々が生活の糧を得るだけの労働に費やされる。当り前と言えば当り前。 最近つまらないのは、心から信頼できる人間の居ないこと。それは視野の問題であること。人間、生活をしていればそれなりに眼も雲ることもあろうけれど、狭い世界に楽しみは少ない。 話は変わって、最近の二ュースでの顕著な傾向を思うと、皆が指差そうとしているものが見えて来るような気がする。「窒息感」〜でも、私が感じるのは合理的な解決からはほど遠いものを見ている。人間が人間として、自己の内に責任を担い、崩壊すること。悲劇を認めること。誰も不幸な環境と精神病理学上の問題に還元されたくはないだろう。合理性から不合理なものへ、私たちは越えて行かなければならないのかもしれない。ただし、合理的な了解を経た上で。 新興宗教じゃないのだから。 |
今日は春分の日であるが、出勤日となる。外は春も近く、花粉の舞う李節。段々と花粉症の症状がきっくなる。春の陽は好きだが、粉ぽい空気が嫌い。今日は富みにまぶたがつきそうに重い。 本当に書きたいことは書かずに終わる、というパターンが統きそうで恐い。 |
今日は雨。泣っ面に雨か。昨日のサッカー(日本vs中国の親喜試合)は何んとはがゆい結果に終ったのだろう。今日のこの雨は理由の無い雨でもないか?! 中盤は支配できるが、止めを刺すことができない。悲しいかな、これって日本人的優柔不断、ことなかれ主義?。相手のオウンゴールを待っているのかな?。いっものパターンでペナルティエりアの外でボールを回している状態が長く、見ているだけでフラストレーションがたまってしまう。もっと思いきりよくペナルティエりアの中へ切れ込まなければ点に結びつかない。ロングシュートは現代的戦術だけど、サッカーは迫兵戦が醍醐味でもあると思う。 もう少しFWは足技を身に付けるベきだと思う。更に強い肉体も。常に重心を安定させる筋カが必要だ。 |
アレルギーの蔓延。 私は花粉症でこの季節はつらい。 数日前から杉花粉が多くなっているようだ。私は今年も気分がすぐれない。毎年のこととは言え、春が嫌な季節になるとは何んてつまらない。 とは言うものの、春と言っても別段良い事が多くあった訳でもない。学生の頃には毎年の行事が進行するだけのこと。社会人になれば、自分の気まぐれから落着きのない生活。ひと所には長く居られない性分らしい。 春ともなれば、心はぼ〜っとしているにしても、うら々々と迷子の子供のようにほっっき歩きたくなる。子供の頃は迷子の常習犯で、大人になれば浮浪者の仲間、それも鼻たれ小僧よろしく、くしゃみと鼻水の嵐。 何年も前には春三月は毎晩のようにー人で飲み歩いていた。春が好きでもなかったな。不思議なことに、春のどことなく浮くようなそわそわした気分に誘われてもあり、でも、何がそんなに悲しいのかと思う程に沈んだ心持ちで酒を飲み続ける。と、酔いの中でちらちらと桜の散る。いや々々此処は新宿西ロしょんべん横町、または泥酔した私の眼の中か、明るい薄紅色の靄の中で、ほんわりとした悲しさに沈んでいく。私は雪融けの水のように夜の街に染みていく。 翌朝は布団の中で人間の型に戻っている。冷えた体を温めるよう陽の高くなるのを布団の中で待つ。春は眠るに気持よく、もう起きたくないと思う。 ところで今年は、花粉の舞う外界をうとましく思いながら、鼻づまりのおつむでふらふら歩いている。花粉さながら何処かへ飛んでしまいそうな、花粉の嵐。 |
漱石の「坊っちゃん」を読んだ。 メール配信の「日本文学(e-text)全集」を通勤電車の中、このカシオぺアで読んだ。ちゃんと通読したのは今回が初めてになる。子供の頃にダイジェストを子供用の雑誌で誌んだ憶えがある。 今読くでみると、この面白さは子供には解らないのではなかろうか。 「坊っちゃん」の中にあるや人ちゃさ加減と後先のない自由さは高度成長期の終盤で私たちの世界から失ったものだ。 1989年に東西の璧が崩れ冷戦構造に終止符が打たれ、資本主義の勝利に終わったかに見えたが、実際のところは問題点、対立構造の転換があった。 官僚制ー支配被支配の社会構造上の問題に論点が移って来たのだろう。 19世紀から続いた合理的な社会を形成しようとする勢い、送信から科学へ、道徳から心理学(精神病理学)へ、隅々まで気の配られた世界へ(!〉、この世界から締め出されたのは自由と偶然であった。 偶然には神秘的な輝き、その尊厳を失いつつあり、全ては誤ちの代名詞になろうとしている。自己家畜化の進行。 |
まさしく、いつの間にやら時が経って何もせずに1年半にもなってしまった。決っして何もしてないわけではないのだが、このホームページについては随分とご無沙汰になってしまった。次々と内容を更新していくのはさすがに苦痛だ。ー番問題なのは「ー体何の目的で?」という思いに捕われると、にっすもさっちもいかなくなる。ましてや、価値なんぞという厄介きわまる言葉が出て来てはもうお手上げだ。 ところで、これは何を使って書いていると思います。実はカシオペアです。とにかく何をしていてもデータ入カができる環境がなくてはどうにも不便と思い、買ってしまった。 でも、白い紙が目の前にあるとどう思うかな。やっばり頭の中も真っ白。状況は何も変っていないというのが本当のところ。続けるために必要なことは何んなのだろうかな。 |
去年から山へ行こうと思ってはいたものの、何もできないままに年を越しもう5月。
やっと先週には奥多摩の御前山に登ってきた。 久々に登山靴を出してみると、二、三箇所にひび割れがある。 御前山の登りはロープウェイも使わずに快調に上ったつもりが、鳩ノ巣へ降りていく最後の1時間ばかりは膝に不安を覚える。 自宅の駅に着いてみれば、改札口へ行く上り階段の踊り場が霞んでしまうぐらい遠くに見える。私の膝はミシミシときしんで、一向に力が入らない。何年ものブランクで油が切れたらしい。手すりにつかまって、いかにも足が萎えてしまったようによじ登る。悔しいような哀しいような、恥ずかしい。ーー誰に? 今日は贅肉落としにジョギングでもと思ったら、何年もはいていない運動靴は靴底からぼろぼろと崩れて、ただのゴミくず。 明日から心を入れ替え、毎日精進しましょう! |